随想・雑感

大学黎明期の教育支援と財団の研究支援

理事 今泉 勝己

 3.11の大震災からの社会・経済・産業の復興に資する人材を育成していくことが急務であり、そのための戦略的な産学協働を推進するため、大学と企業とにより産学協働人材育成円卓会議が立ち上げられている。ここでは、グローバルでイノベイティブな日本社会を牽引できる大学院レベルの人材育成を推進していくための課題が検討されている。円卓会議は本年5月7日にアクションプランをとりまとめ、公表。今後の予定は秋頃、アクションプランに関連する各企業・大学の取組などについて情報共有、また社会全体に発信、広げていくためのシンポジウム等を開催など。

 ところで、大学教育黎明期の教育者であり研究者であった山川健次郎先生(1854年~1931年)の胸像が、出身地である福島県会津若松市から九州大学に寄贈され、平成24年5月13日、その披露式が関係者の参列のもと行われた。山川先生は東大・九大・京大総長、九工大総裁等を務めた。旧会津藩士で薩長との戦いでは、年少のため白虎隊を除隊となり生き残ったことや、苦学して米イエール大学に留学し物理学を収め、東大教授を務めたことなどのエピソードを持つ。山川先生を祖とする物理学者の人脈には、長岡半太郎をはじめ、ノーベル賞学者が名を連ねる。

 山川先生が抜きんでた才能の持ち主であったことは言うまでもないが、一方で先生の成長を無条件に引き立て助けた周囲の大人達の行為も見事であった(男爵山川先生傳、昭和14年、岩波書店)。敗軍の会津藩士は悲惨な状況に追いやられたが、同藩の上層部は山川先生を新潟に逃し、長州出身の官軍参謀に託した。ついで、薩摩出身の黒田清隆によって米国留学に選ばれる。仇敵の子弟であろうともチャンスを与えるという心意気であった。また、明治政府が財政難から留学生総引き揚げを命じた時、学資に困った山川先生を助けたのは同級生の伯母である富豪ハンドマン夫人であった。夫人は学費を出す条件として、「学業成就して本国に帰りたる後は、力のかぎり本国のために尽力すべし。」という文意の誓書を認めることのみを要求した。一人の米夫人の篤志によって先生は余すところ1年半余りの学業を熱心に修められた。

元東大総長で文相であった有馬朗人氏によれば、「山川先生が大学など日本の高等教育を作ろうという義務感、使命感があり、さらに、自分が作らねばならないという情熱をもって成し遂げられた、そこに山川先生の功績がある。」とインタビューで述べておられる(九州帝国大学初代総長 山川健次郎、平成23年、九州大学百周年記念事業推進室編)。有馬氏はさらに、「山川先生が敵方者であっても優秀な若者として留学生に選ばれたのも、優秀な学者を外国から高給で招くということなど、明治政府の進取の精神が当時の政府の中にあったのでしょう。」とも述べられている。150年前の山川先生を振り返ると、若者への期待を口にするだけでなく、未来への投資を惜しまないことが今の大人や大学教育にとって最も必要ではなかろうか。

 さて、不二たん白質研究振興財団(1997年)はその前身である大豆たん白質栄養研究会(1979年)と大豆たん白質研究会(1991年)を含めて33年の歴史を持つ。当財団は2012年に公益財団法人へ移行したが、目的および事業等はこれまでと本質的な変更はなく、大豆たん白質に関する研究の奨励・援助を行い、学術の発展及び国民生活の向上に寄与することである。当財団の大豆たん白質研究報告会記録によれば、当財団が支援する研究テーマは研究会発足の初期では大豆たん白質に関する育種、食品科学・加工特性、生化学・栄養、健康・臨床栄養であった。1989年頃から大豆たん白質ペプチドに関する研究テーマが多くなり、1997年頃から大豆のイソフラボンに関する研究テーマが多くなっている。生命科学系では世界最大の文献データベースであるPubMedで調べると1980年の大豆たん白質に関する論文は144件で、当財団研究会誌のそれはその10%以上(18編)であった。1990年の大豆たん白質ペプチドの論文数はPubMedが105編であり、当研究会誌のそれは7編である。イソフラボンの論文数はPubMedの検索でも、当研究会誌においても1998年前後から急増している。先に述べた黎明期の教育支援の精神が当財団にも受け継がれ、見返りを求めない研究者の自由な発想に基づく研究に対する支援が営々と続けられてきた結果、大豆たん白質分野の研究発展に大きく貢献していると言える。

〈九州大学 理事・副学長〉

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