随想・雑感

西村名誉理事長のご逝去を悼む

元理事 櫻井 洸

 西村さんに初めてお会いしたのは、昭和23年の夏頃であった。榎木橋の不二蚕糸大阪工場であった。私の大学院学生時代である。私の日本化学会での研究報告を読まれて、今の工場で行っているのにそのまま適用出来るといわれた。米糠油に関する研究である。毎月連続で恩師上野誠一先生が演題を先々に出され、徹夜でやることも屡々であった。

 本社が長野県の上田にあって、蚕繭より生糸を紡ぎ、あとの蚕蛹を大阪工場に送って油を抽出して石鹸を作っていた。油の抽出、搾油については豊年製油を専務で辞められた菊池土用三さんが来られていた。米糠油の粗油は粘質物を含む高酸価油であり、その精製法についての研究を私が行っていた。昭和25年に不二製油株式会社として独立した。その頃に化学機械会社にいた浦上昭久君に来てもらって、技術陣を充実した。

 次に新しい工業生産を行うのに、どういう研究をしようかと考えた。製油業としては後発であった不二製油は、南方の固形油脂を主とした原料が多いため、油脂の分別を取り上げて、バター、チョコレートの原料にしてはと考えた。溶剤結晶分別法で好結果を得て、浦上君が工業的に成功させた。その時の西村さんの喜び様は何ともいえないものであった。その間特許庁やその長官の所へ何回か西村さんと同道したことであった。次に西村さんは大豆は大豆油ではなく、大豆たん白質の利用に興味をもたれた。大豆の組成は油分が約20%であるが、たん白質分は約35%である。この研究や利用は戦前満鉄の研究所で盛んに行われていた。個性的で人真似せず、創造するという、先見性をもって研究室の充実を図られた。また英国からバーナード・ホーレーさんを昭和40年(1965年)頃に、海外のコンサルタントとしてお願いされ、大豆たん白質等についての技術の情報を導入され、世界を股にかけた開発を考えられていた。私も英国のシャルボンのお宅や、スイスの事務所を訪問することもあった。大豆たん白質の栄養に関する研究は昭和50年(1975年)頃から世界的な傾向となり、「大豆たん白質栄養研究会」が徳島大学医学部の井上五郎教授の主宰で昭和54年(1979年)に設立された。理事長に西村さんが、委員長には井上先生が就任されて、研究助成金及び経費は不二製油が出された。大豆が人の生活に重要なことを改めて究めようとの信念である。そこで世界の化学文献抄録誌ChemicalAbstract(C.A.)の日本編集委員であった香川大学名誉教授川村信一郎氏の協力を得て、Vol.1(1980年)から掲載されることになった。平成3年(1991年)に研究領域及び分野を拡大して「大豆たん白質研究会」に改称され、通じて18回の年輪を重ねて来られた。これまでの助成活動をさらに発展充実させるため、財団法人として文部省に認可を得るのに、担当課長に詳細説明した処、よく理解され直ちに承認されて、不二たん白質研究振興財団が設立された。財団として今年で10回の研究助成とその発表が行われており、公開講演が全国各地で開催されている。西村さんは社会的に有意義な役割に深く感動され、大豆たん白質が乳たん白質と比較して優れていることが脳裡にあって、多くの社会人に知らしめたいとの思いで一杯であられました。その御遺志を継ぎ、今後の不二製油の益々の発展に尽くしたいと思います。

〈大阪大学名誉教授〉

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