随想・雑感

大豆たん白質栄養研究会設立当時の思い出

選考委員 山本 茂

 30年ほど前、私が大学院を出て井上五郎先生の助手になって間もないころのことであった。井上先生が担当する徳島大学医学部栄養学科栄養生理学教室に不二製油の谷口元常務理事(元不二製油専務)がおいでになった。偶然、私が、谷口氏を車で徳島港にお送りすることになった。当時は、鳴門大橋や明石大橋はなかったので、徳島から大阪方面への交通は、徳島港からの高速船が最も便利であった。徳島港は、徳島大学医学部から徳島の市街地を経由して反対方向にあったために、あまり便利ではなかった。翌日井上先生から、谷口氏がお見えになった理由が、大豆たん白質栄養研究会設立の相談であったことを聞かされた。

 井上先生は、徳島大学医学部に、日本で初めて管理栄養士養成 施設である栄養学科が作られた時に赴任された。井上先生の研究は、たん白質・アミノ酸必要量であった。当時のたん白質必要量の研究グループは、MITのスクリムショウ教授門下の一大勢力と、日本の井上五郎先生の一門であった。井上先生から、戦後の京都府立医科大学吉村寿人教授の研究室で始まったお話をよくお聞きした。井上教授、新山喜昭助教授、藤田美明助手、岸恭一 助手、その他数名の先生方は、男子学生を被験者にして、研究を行っていた。

 研究は、今、考えると猛烈なものであった。炭水化物はコーンスターチのういろう、エネルギー調節は砂糖、脂肪はスターチのういろうをフライにした大豆油とスターチのクッキーを作る時に使うラード、食物繊維には弁当箱いっぱいの寒天、そしてミネラル・ミックスチャーやビタミン・ミックスチャーだった。窒素源のたん白質あるいはアミノ酸は、水で溶かして飲んだり、クッキーに混ぜられていた。井上先生は、お酒好きで豪放磊落な方であったが、研究に対しては非常に慎重で、普通ならせいぜい3週間の試験を1カ月以上も続けて精度の高いデータを出そうとされていた。我々被験者も、貧しい食生活の時代を過ごした者たちであったのでそのような食生活にも大した不満はなく、むしろ被験者になることで先生方に接する喜びのほうが大きかったようで、 希望者が多く、しばらく待ってやっとやらせていただいたという感じであった。一カ月間の研究期間中は、毎日、便と尿をすべ て集めるのである。便は、毎回アルミのボールにとった。尿は、1L入りのプラスチックボトルをナップサックに背負って移動し ていた。便は1週間ごとに乾燥機にかけて乾燥し、それを藤田先生、岸先生が乳鉢で粉にしていた。その作業から帰ってきた先生 方の香りは強烈なものであったことが懐かしい。しかし、乾燥中、そこいら中に立ち込める臭いもかなりのものであった。被験者のほうも、少しもれた尿で、背中が濡れることがしばしばあった。

 この時代は、日本もやっとたん白質不足の時代から脱却しかけた時代であり、世界的にはたん白質欠乏が最大の健康障害であった。そのために、大豆たん白質の利用効率に関する窒素出納試験は、国際的にも重要な課題であった。大豆は、卵、ミルク、肉、魚などの動物性たん白質に比べてメチオニンが不足して、たん 白利用効率も動物性食品たん白質の80%程度との報告が多かっ た。しかし、スクリムショウ一派の研究から、メチオニンの必要量はもっと低くてもよいというようなことが報告され始めたために、この研究は当時のホットな話題であった。

 このような背景のもとで、1980年に第一回大豆たん白栄養研究会が開催された。大豆たん白質が血清コレステロール値を低下させ、心臓病などを予防するというような研究も始められた。第一回研究誌を見ると、委員の先生方は、井上五郎委員長、芦田淳、 金森正雄、菅野道廣、田中武彦、新山喜昭、林伸一および藤巻正生、そして西村政太郎理事長(不二製油)という豪華メンバーであった。研究費は、それほど大きなものではなかったと思ったが、これだけの先生方を集められたのは、井上先生や不二製油の方々の並々ならぬご尽力とお人柄があったためと思われる。

 研究会は、途中大豆たん白質研究会と名前を変えながら、立派な先生方に脈々と受け継がれ、これまでに膨大な貴重な成果が発見され、また次々と発見されつつある。本財団はこれから先も、 日本のそして世界の食文化と人々の健康に貢献しつつ発展することは疑う余地もないことである。自分の思い出話になってしまったが、研究会開始当時の風景を少し想像していただけると嬉しく思う次第である。

〈お茶の水女子大学 人間文化創成科学研究科教授〉

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