随想・雑感

食のDNA診断

選考委員 阿部 啓子

 思えば、今世紀早々の2001年にNatureとScienceの両誌が掲載 したヒト・ゲノム計画完了の報告は、ライフサイエンス分野にとっ てのみならず、産業界さらには一般社会にとって大きなインパクト となった。私たちの身体を構成する60兆の細胞のそれぞれに存在す る2万以上もの遺伝子DNAがすべて解読されたことを知り、世界中 が興奮したのも、宣なるかなの感がある。こうして世の中は、1つ1 つの遺伝子の解明を競い合う時代から、解明された全遺伝子群(ゲ ノム)の情報の利用を競い合う時代へと移った。いわゆるポストゲ ノム時代の到来である。この波は食品分野へも及んできた。その具 体例の1つとして“ニュートリゲノミクス”(栄養ゲノム情報科学) の誕生がある。2002年のことであった。

  ある食品をヒトまたは動物に摂取させた後、ヒトの場合には例え ば血液を、動物の場合には例えば肝臓を摘出し、全RNAを抽出し、 それからcRNAを合成する。一方、DNAマイクロアレイというチッ プ(単価5~10万円)を購入し、全cRNAを注入する。このチップ には何千何万もの種類のDNAが碁盤の目のように配列(アレイ)さ せてあって、相同mRNAとDNA同士が反応(ハイブリダイズ)して ピカッと光を出すような工夫が施されており、反応の量により出す 光の強さが異なるので、変換した全mRNA(したがって抽出した全 DNA)の中のどれが、その食品の摂取によって増量(活性化)され たかを数値で表現できる。いま、2つの食品を比較すると、片方の 食品は他方の食品よりも特定の遺伝子を何倍活性化させるかが計測 できる。もちろん、この計測はコンピューターで行い、統計的に有 意差を解析する。こうして食品の品質はDNA発現に置きかえて表現 されるのである。

  もし、1つの食品の摂取で好ましくないDNA例えばがん遺伝子が 有意に活性化されたとしたら、その食品は発がん性が疑われる。好 ましいDNA例えばがん抑制遺伝子が活性化されたとしたら、それは抗がんの機能をもつと期待される。私たちの体内には健康や病態を 示唆するさまざまな生体指標(バイオマーカー)があるが、その中 で最も根元的なものはDNAマーカーである。がんや抗がんに関係す るもの以外にもいろいろなDNAマーカーがある。肥満、糖尿病、高 血圧、高脂血症、高コレステロール血症、骨粗鬆症、アレルギーな どの生活習慣病に関係するものも沢山ある。食品の機能性・安全性 をこれらの指標が増大の方向にあるか減少の傾向にあるかを逸早く 予測し得るニュートリゲノミクスは、いわば“食のDNA診断”とし て最近、栄養・機能性食品の分野で国際的に急速な発展を見せてい る。ごく最近は、味覚の研究にもこれが使われ始めているのである。 さらに、近い将来、食の効果の個人差を反映する遺伝子の一塩基多 型SNPs(スニップスと発音)をしらべる栄養SNPsマイクロアレ イが開発され、個の栄養(personalized nutrition)やテーラーメー ド食品の開発に利用されると考えられる。

  私自身は“ニュートリゲノミクス”の名称が生まれる前からDNA マイクロアレイ解析を開始していた。それが基盤になって3年前、 32社の食品企業の共同出資で東京大学にイルシージャパン寄付講座 「機能性食品ゲノミクス」(担当・松本一朗准教授)が開設された。 これを利用して初めて挙げた成果の1つが、不二製油(株)の「大豆た ん白質のコレステロール・中性脂肪低減機能の検証」であったのは、 私にとって大変印象的なことであった。

  食の研究は新しい時代に突入した。大豆をはじめ私たちが日常摂 取している多くの食品について、そして機能性食品・特定保健用食 品について、身体に与える効果の本質をDNA診断するのが日常茶飯 事になるであろう。そんな未来に想いを馳せる今日この頃である。

〈東京大学大学院農学生命科学研究科教授〉

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