随想・雑感

私の大豆研究-その草創の頃

選考委員 荒井 綜一

 大豆は、昭和30年代、合衆国の世界食糧戦略の中で、油糧種子としてばかりでなく、たん白質資源として国際的に見直されるようになった。米国農務省は各国に研究費を配り、大豆研究を大いに奨励したと聞く。

昭和39年(東京オリンピックの年)、縁あって母校(東大農学部)へ舞い戻った私は、藤巻正生先生から「大豆のフレーバーの研究」を命じられた。これは米国農務省助成研究の一環でもあったようだ。私は、当時進歩の著しかった機器分析を駆使し、30以上のフレーバー成分を同定したが、今後、研究をさらに発展させるには、たん白質や酵素を主題にすることが大切だと感じ始めてもいた。P. D. Boyer編“The Enzymes”などの分厚い洋書を密かに読み出したのもそのころだった。

フレーバーとたん白質を半ば強引に関連づけようとした私は、両者間の分子結合が大豆たん白質にしつこく残存するにおいの原因であることを見いだし、たん白質を酵素で部分的に分解すれば完全脱臭しうることを実験で確かめた。そのデータはU. S. Patent 3585047(1971)となり、研究助成への多少の恩返しになった。

ところが、ここで新たな問題が派生した。それはたん白質の部分分解によって苦味が生じる問題であった。そこで苦味ペプチドの研究に入った。シーケンサーなどがなかった当時は、随分苦労したが、同僚の渡辺道子博士(現東京学芸大学教授)の協力を得、数種類のものの構造を世界に先駆けて決定することができた。昭和43年のことであった。

その頃、東大では学園紛争が猛威を振るっていた。が、その中で私たちは研究に専念していた。ある日、渡辺博士と私は、苦味ペプチドをもっと究明したいと思い、大量の大豆たん白質溶液にペプシンを加え、トロトロのゾル状のものへと分解し、強烈な苦味の発生を確認した。「今日はここまでにしよう」ということで試料を冷蔵庫にしまい、帰った。ところが、翌日から紛争が農学部へも押し寄せ、実験室に入れなくなってしまった。数日後、やっと研究を再開できるようになったので冷蔵庫から試料を出したところ、なんとゾルは固まっており、容器を逆さにしてもこぼれず、しかも苦味はほとんど消失してしまっていたのである。

私は、前述の洋書に“プラステイン”(たん白質分解酵素逆反応によって形成されるゲル状高分子物質)のことがチョッピリ載っていたのに気づいた。そして自分が今、この奇妙なものの形成反応をわが目で見たことに、大きな興奮を覚えたのだった。

実はこれが、大豆たん白質の栄養特性改良のための酵素修飾の研究へ、さらには修飾反応を調節するための酵素インヒビター(soyacystatin)を開発する遺伝子工学の研究へ、私を誘うターニングポイントになった。以来、「大豆たん白質(栄養)研究会」のご助成を毎年のように賜り、研究を大きく進展させることができた。もし、大学紛争がなかったら、その後、そして今、どんな研究をしていただろうか?

以上は、何も私の手柄話をしたいがために書いたものではない。1つの偶然が、自身の研究の中に新しいテーマを見つけ出させる機運となることを、最も手近な例を挙げて具体的に示したかっただけである。下手な自叙伝みたいになったことをお詫びしたい。

〈前東京大学教授・東京農業大学応用生物科学部教授〉

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